おれたちの文化財 浜寺公園駅舎 VoL 1

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2015年8月5日 9:03 AM に投稿

おれたちの文化財 VoL 1 浜寺公園駅舎

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ー今書いておかねば大変なことになるー

過日大阪北船場を取材した時のこと、由緒ある建物が破壊される現場に行きあたりました。

理由は土地の値あがりによるものだそうです。今大阪市内では坪あたり数千万もするそうですが、

古くからの建造物は、土地の有効利用のみを考える人達にとっては、無用の長物なのでしょうか。

文化財指定される以前に取り壊しサラ地にしたあげく駐車場などにして、時機を待つという、

文化の破壊行為が平然と行なわれているわけです。

これでは日本の街はロンドンやパリのような街には絶対なれはしない!

いずれは文化という言葉すら忘れさられていくのかもしれない。

せめてわが街堺だけはこうあって欲しくない。まだ今だったら手がつけられる。

貴重な文化を残していくことを訴求するのは今だと思うのです。

華麗な鹿鳴館の香り

南海本線浜寺公園駅の駅舎の姿はとても麗しい。均整のとれた明るい初ういしさは、

可憐なハイカラさんといったところだ。公園のテニスコートで一汗流してきた

少女達が家路につこうと正面玄関あたりで談笑している時など、

この美しい建物はひときわ息づいて感じられる。

明治40年竣工の建築。東京駅や日本銀行を設計した建築界の重鎮、

辰野金吾、片岡安・両博士の作品である。

近代から現代への歴史の生き証人のような豊富な文化財的建築物が、

公的指定を受ける前にどんどん壊されていってるのが現場だが、駅員さんの話では、

この駅舎もご多聞にもれず、老朽化を理由に廃舎の予定であったらしい。

それが地元住民の人たちや、建築学関係者の人びとの熱い保存の要望によって、

生き永らえることになった。今、明治の色を復元して化粧直しの最中である。

現役で活躍している明治建築の駅舎の中で、関西では一番美しいものといわれている。

「外観はピクチャレスク風で、ハーフ・チンバーといわれる木骨真壁造り、

白色の漆喰壁と木部のリズミカル調和がとても美しい駅舎である。

特に正面ポーチの開放的なアーケード(アーチ形廊)、とっくり型の柱はコンドルの

鹿鳴館の柱をおもわせるものがある。

ドーム窓、ハーフ・チンバーを基調とした美しいシンメトリーの外観は、

全体、部分ともによくまとまっている。」柴田正巳氏(明治建築研究会々長)は

その容姿を実に簡明に言い表わしておられる。

日本の近代建築は、造幣局の泉布館や、鹿鳴館にみられるように、

洋風の直輸入から始まったが、この頃になると、様々な要素を摂取し、

消化吸収した独自の様式をみるようになった。その代表例のひとつが、

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どのような理由で大阪南方の郊外にポツンと建つにいたったのだろう。

明治40年頃のこのあたりは、西が白砂青松の浜地であって、

東は金剛葛城の山なみを望む田園地帯だったのだ。

国際色豊かな駅舎へ…

南海本線、難波〜浜寺公園間が開通したのが明治30年。初代の駅舎は、

写真でみるかぎり浜辺に建ったニシン小屋みたいなものだ。

36年、和歌山市まで全通。この年、いま開催中の天王寺博会場一帯で第五回内国勧業博がもたれ、

第二会場のマリンパークが堺市大浜公園で開かれるが、客足は浜寺公園駅にまでは伸びてこない。

年間乗降客は10万人ほどであった。ところが38年・39年には、ともに45万人と急増している。

原因は日露戦争だ。38年1月に浜寺公園内に造られた捕虜収容所に、

ロシア兵を観るためにやってきた庶民の足の数が主だというのである。

もちろん政府、軍関係者の往来があった。国際視察団はじめ、

多数の外国人によるたび重なる収容所視察があって、公園駅は時ならぬ国際色をみるに至ったのである。

40年、難波〜浜寺公園間の電化、複線化と同時に、わずか十年しかたっていない旧舎を廃して、

いまみる瀟酒な建築に生まれかわった。ペチカつきの一等待合室、立派な外容、

だれにきていただいても恥しくない一級品を造りあげた。

この点では鹿鳴館や泉武館同様に浜寺公園駅舎の正面は外国を向いている。

ついでに、40年〜42年の乗降客数は年間70万人とまた急増。

臨時編成の第16師団の浜寺村駐屯にもよるが、

この頃から高級分譲住宅地の開発など田園の都市化が進行しはじめたのであった。

明治建築の遺作を後世にまで残していきたい

歴史を生きてきた、そしてなお生き続けている建造物に接すると、

ただ生理的に胸が熱くなってものが言えなくなる。あらたな講釈を封ずる優しい静かな力があって、

その力は何であろうか、などと考えながら、電車に乗らずに駅舎の前で突っ立っている。

お化粧直しのあらたな塗装は、白乳色原流を四色に色分けしてある。

明治の色の再現ということで、あらゆる資料をコンピューターにインプットして、

正しい情報を引き出す、コーディネイターの腕の見せどころだ。

いつまでも大切に使わせていただきたい駅舎である。

(野崎)

参考文献=「南大阪の明治・大正・昭和戦前の建物案内」(柴田正巳・大阪春秋39号)

及び同氏講義録。堺市史

編集室より

二十一世紀に向けて、新しい都市の創造、近代化から未来化へ堺市は大きく変遷を

遂げようとしています。又その一方では貴重な文化財が、片隅へ押しやられ、

目に触れることもないまま、消えていく運命にあるものも少なくありません。

科学・工業の発達で街が時の流れの中でいかに進歩しようとも、先人達の残した

歴史の玉手箱まで失ないたくはないものです。

文化財を保護する為にもこの企画は続けたいと思います。



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