まだ解き明かされていない仁徳天皇一族と陵墓の存在!

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仁徳天皇一族
第15代の応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者

の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、

皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと

伝える)により即位したという。皇位を譲られた第16代仁徳天皇、

そして履中天皇陵、反正天皇陵と第16代から第17代第18代と2人の

息子が引き継ぐが、そうした古墳群が3人の天皇陵を中心に堺の

百舌鳥古墳群一体に築かれていることは、大変に興味深い、

地理的に瀬戸内海から堺の高い台地にあり、

更に世界最大の墳墓としては、海からやって来たものには

驚異的に感じたのではなかろうか。仁徳天皇についてのエピソードでは、

かまどから立ち上る煙ではなかろうか。古事記・日本書紀に記載の逸話

がある。いわゆる人家の竈(かまど)から炊煙(すいえん)が立ち上って

いないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿

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の屋根の茅さえ葺き替えさえなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に

見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号

もこれに由来する。ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に

苛まれる人間臭い一面も描かれている。

また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、

元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。

百舌鳥の地には仁徳天皇、反正天皇、履中天皇の三陵が築かれたとされ、


仁徳天皇

実はどれが仁徳天皇陵かは認定できない為に「治定」と言う

つまりまだまだ解き明かされていない天皇と陵墓の存在を、記紀

(古事記・日本書紀)の記述だけで徳育に使われた部分。

いずれにしろ、世界最大級の墳墓を技術力もない中築かれた、

しかも毎日、万単位の作業員が従事しなければ完成しない、

そのことだけでも歴史的なことと想像する。5世紀代のことで記録も少なく、

過去の資料などからの推測によるしかない。



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