寄稿(阪堺電車沿線案内)

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阪堺電車沿線案内 ③むかしのかたち ーぶらり道ばたの文化遺産ー

(大阪春秋編集委員)野﨑敏生  一、平成23年8月1日・大和川

平成23年は住吉さんの鎮座1800年祭に当たる。大祭最後の8月1日、

本宮から堺の頓宮・宿院へ向かって神輿渡御が催された。阪堺線・大和川駅あたりは、

年に一度の人出で賑わった。鉄橋の下流のすぐに小さな中洲が浮いている。

紀州街道を南下してきた主座の神輿が一基、その中洲で住吉衆から堺衆へと引き渡される。

時におごそかで、時に勇壮な雰囲気が両岸の人たちを包む。

その他の神輿は、時代色豊かで華美な長蛇の列に前後を護られてすぐ川下の大和橋を渡る。

渡御行列は、川渡りの主神輿を迎えて再び紀州街道を南下、並松町を経て堺へと向かった。

(以下、堺=旧環濠内市街区および港)。

この年、格別に人出の多かった原因の一つに巨大な鯨山車の参加したことが上げられる。

歴史の内にほぼ埋没しかけていた鯨音頭、鯨踊り、鯨山車が鎌苅一身さんをはじめ

堺・湊西有志の手により復元され、住吉大社に宮入したのち、

57年ぶりに街道でお披露目されたのだった。

渡御行列の過ぎ去った大和川駅周辺はまさに祭りのあと、茜空の下人影なく、

土堤の堺側の広大な空き地を茫漠たる寂寥が覆う。かつては土提下から堺環濠北辺りまでを、

この国の基幹産業が占めていた。

東洋一と謳われた大日本セルロイド㈱(現ダイセル)。

昭和12年には生産量・品質ともに世界最高水準に達している。近年、完全撤退して、

荒涼たるサラ地の中に美しい3階建ての赤レンガ建築が遺り、

往時を偲ばせている(南海本線・七道駅が近い)。

大和川駅前、東南を占める空き地の奥に、門柱をもつやはり3階建てのビルがポツンと一棟。

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チンチン電車 その昔、大日本帝国陸軍のカーキ色の軍服を一手に扱っていた大和川染工場・本社棟である。

階段の手すりや漆喰の壁面、天井に大正末から昭和はじめの様式が安らいで見える。

このような建物は、保存の意志がなければ遺らない。

遺ってもメンテナンスという愛の手に護られなければ、朽ちてしまう。その双方によって護られた一例を、

3階の踊り場に見ることができる。橋が木造であった頃の大和橋木製親柱が保存されている。

貴重な文化遺産である。

大和川駅上りホームから土提の斜面を線路沿いにとろとろと下り、途中の草むらで腰をおろす。

斜め頭上の阪堺線大和川鉄橋をチンチン電車が心地よい音をたてて通りすぎる。

見上げる橋桁に一枚の鋳造鉄板がリベットで打ち付けられている。

「明治四十四年 横河橋梁製作所製作 大阪」とはっきり読める。

鉄橋は100年を経た今でも元気。華奢でお洒落な姿を見せている。

柱の頭部など工学的に考慮されながら、ギリシャのコリント式キャピタルをシンプルに

デザイン化したかのように美しい。実はこれにはモデルがある。

川上の南海高野線・大和川鉄橋上り線。明治33年(1900)梅鉢鉄工所が製作した。

同じデザインながら、こちらは重厚だ。

大和川は人工の河である。建国神話の昔から柏原で西進して大阪に流れていたものを、

宝永元年(1704)堺浦に向けて付け替えた。

それまでは、住吉と堺とは地続きで、

文献の上でも堺住吉、住吉堺と親しまれて一本の松並木で繋がっていた。

大和川から旧堺環濠北辺までの紀州街道に並松町の名で今にのこる。

堺の人たちは、紀州街道の上りを大阪みち、住吉みちと呼び親しんだ。



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